高須競馬場は昭和二年に丹羽都奈夫、栗田大三、伊藤綾次の諸氏(いずれも地主)らの 発起で高須競馬会が設立され、海津郡高須町の大江川畔(現在の高須高女)に高須競馬場 を開設し、昭和二年から四ヵ年間に春秋二回づつ八回にわたってつぎのとおり施行した。 |
昭和二年 | 春 三日 | 四八頭 | 七八五三円 |
昭和二年 | 秋 三日 | 五三頭 | 一五一九七円 |
昭和三年 | 春 三日 | 五〇頭 | 一六六六五円 |
昭和三年 | 秋 三日 | 五四頭 | 一六七八六円 |
昭和四年 | 春 三日 | 四八頭 | 一六〇七九円 |
昭和四年 | 秋 三日 | 五三頭 | 二二五四四円 |
昭和五年 | 春 三日 | 四八頭 | 三〇七六七円 |
昭和五年 | 秋 三日 | 五三頭 | 三二五〇〇円 |
中津競馬場と高須競馬場は本県地方競馬(岐阜県)の先駆けとなったが、両競馬場とも 山間、辺地のこととて地の利を得ず、入場者もひどい時は五百人を割る始末、入場券の 売上も不振で、たちまち経営困難に陥り、赤字をかかえて開店休業もやむない事態に追 い込まれてしまった。 そこで、第三番目の競馬場として名乗りをあげたのが各務原競馬場であった。 中津、高須両競馬の不振からして「競馬はやはり交通便利な岐阜市近郊でなければ.....」 という世論がうまれつつあったので、岐阜市の清水東一氏らは昭和四年ころすでに岐阜競馬 株式会社を設立して、実現のチャンスを待っていた。 休業状態に入った高須競馬は当然狙われた。 同会社は高須競馬会を相手に高須競馬場(競馬開催権)の買収に乗り出したが、 容易に事が運ばなかった。 それどころか、流血の惨事を惹き起すまでに事態は悪化した。 しかし、高須側がいかに執着し、ねばっても経営不振はこれを如何とも致し難かった。 相次ぐ赤字経営からついに譲歩せざるを得なくなった。 岐阜競馬株式会社は結局、名目的主権者として県畜産連合会をかつぎ出した。 各務原電鉄の沿線の当時の稲葉郡鵜沼村に敷地(二七九三五坪)を物色し、これに各務原競馬場 (長さ一六〇〇米、幅三○米)を開設、昭和六年の春から同競馬を再開した。 そして同十三年までの八年間に十六回(毎年春秋二回)の競馬を次のとおり施行した。 |
昭和六年 | 春 三日 | 一一〇頭 | 九八四〇六円 |
昭和六年 | 秋 三日 | 一三九頭 | 一五九九七四円 |
昭和七年 | 春 三日 | 一二一頭 | 一二九一四〇円 |
昭和七年 | 秋 三日 | 一二六頭 | 一二〇八九九円 |
昭和八年 | 春 三日 | 一三一頭 | 一五二四五五円 |
昭和八年 | 秋 四日 | 一四八頭 | 一四七五三五円 |
昭和九年 | 春 四日 | 一四七頭 | 一六六九二八円 |
昭和九年 | 秋 四日 | 一四五頭 | 二一九〇八一円 |
昭和一〇年 | 春 四日 | 一四七頭 | 一三〇七六〇円 |
昭和一〇年 | 秋 四日 | 二四一頭 | 二二六七四〇円 |
昭和一一年 | 春 四日 | 一八四頭 | 一八三六四八円 |
昭和一一年 | 秋 四日 | 二〇四頭 | 一八三三〇〇円 |
昭和一二年 | 春 四日 | 一五七頭 | 一八四六〇五円 |
昭和一二年 | 秋 四日 | 一五八頭 | 一二五七〇三円 |
昭和一三年 | 春 四日 | 一四五頭 | 一一〇九八三円 |
昭和一三年 | 秋 四日 | 一三四頭 | 一一八九五〇円 |
1927年当時の高須競馬場
(酒の浪漫亭-所有)
昭和七年の海津町高須の地図 高須競馬場も書かれています
(酒の浪漫亭-所有)
昭和三年の吉田初三朗-養老電鉄沿線名所図絵にも公認競馬場(高須競馬場)が書かれています
(酒の浪漫亭-所有)
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